2008/8/18
「福助」は 江戸時代中期に現れた招福の縁起物人形で
頭額が以上に大きく 背は低く 多くは髷を結い 裃を付けて正座しています
これを座布団の上に安置して神酒 供物を供え福を祈る風習が京阪地方で始まり
江戸に伝わり 全国へも伝播したものです
今では 瀬戸物の福助さんが主流ですが
素朴な手作りの福助さんにも 捨てがたい味わいがあります
元々は伏見人形に「お福」のみしかなく
夫婦ものに仕立てるために作られたのが
「福助」の起こりともいわれています
更に 福助の由来に関しては諸説が有り
その中でも有名なのが三説あります
京都
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八代将軍吉宗の頃 伏見の百姓下村三郎兵衛に 彦太郎という子供が生まれました この子は頭が大きく背が低くて 耳たぶが垂れ下がっていましたが 9歳で上長者町の大文字屋に奉公に出て主人に認められ やがて独立して伏見京町に大文字屋の支店を出すまでになり 名前も彦右衛門と改め 名古屋からお常という嫁をもらい 妻の実家の名古屋で木綿の足袋・腹がけと 「大」と染めた手ぬぐいを売り出したところ これが大あたり あっという間に大店の主人に出世しました これを見ていた伏見の人形師たちが彦右衛門の人形を作り 福助と名づけて売り出したところ これも大流行したというものです |
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摂州
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百姓佐五右衛門の息子 佐太郎は頭が大きく背が低かった為 その容貌を からかわれて村に居たたまれなくなり 小田原宿で「福助」の名前で見世物に出たところ これが人気を呼び 旗本に30両で買われ 屋敷に奉公に上がりました すると 彼のおかげでその旗本は色々と幸運に恵まれ 佐太郎はその屋敷に奉公していた女中と結婚し その絵姿を描いて売り出したら これが又流行したとのことです 享和4年(1804)のことだとされます。 |
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伊吹
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滋賀の伊吹山のふもとの柏原という宿場の 代々伝わるもぐさや「亀屋」に番頭福助がいました この番頭は正直一途で お店の創業以来伝えられた家訓をまもり ふだんの日から裃を着け 扇子を手放さず 道行くお客さんを手招きしてもぐさをすすめ 常にお客に対して感謝の心をあらわし おべっかを言わず 真心で応え続けました そのため商売が大いに繁盛し 主人もまた 福助を大事にしました やがてこの話が京都にも広まり 伏見の人形屋が耳にして 福を招く縁起物として 福助の姿を人形にうつしたのが 始まりといわれています |
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福助さんの家族 |
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福助さんの苗字は 「願いがかなう」に掛けたもので 「叶」と いわれています 十辺舎一九の「叶福助噺」では 大黒天が娘の吉祥天の婿に福助を迎えたという話が載っています 二人の間には福蔵・福六という二人の子供ができました また福助はお多福とも懇ろの仲になり 愛人にしたのだともいいます 福助の母は、おかめであったとされ 福助とお多福が仲良く並んで座っている人形や おかめが福助を背負った人形などもあるそうです なんとなくややこしそうな人間関係ですが 私も愛人を持ってみたーい!! にこやかな顔をして裏では何をやってんだか(笑) |
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福助さんの歴史と定義 |
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荒俣宏氏は「福助さん」(筑摩書房)において 福助人形は 徳川吉宗八代将軍の時代より以前には 溯らないという点を指摘されています 座布団は以前は丸いものであったし 正座というのは昔はなく あぐらか片ひざを立てた座り方が普通でありました また改まった時に裃を着る習慣も 吉宗の頃の時代から始まったものだそうです 大田南畝「一話一言」の享和三亥年(1803) の条に叶福助人形流行 加藤曳尾庵「我衣」の文化元年(1804)の条に 春の頃より叶福助という張りぬきにせし物大いに流行し・・ とあり 当時は叶福助の名前で流行した事が記されています 庶民の祈りは 今も昔も変わることなく 毎年思うことは 『今年より 良い事ばかり重なりて 心のままに叶ふ 福助』 |
伏見人形 |
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福チョロ | 松竹抱き 家や子孫代々の繁栄 また 豊作などを願い創られたもので この様な願いの授与品や人形が 各地に残されています |
小幡人形 |
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立ち福助 色違い | |
立ちお福 色違い | |
太鼓打ち福助 |
旭土人形 |
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福助各種 | 他産地よりの型で作られたもの |
三河型 | 三河型 |
常滑型 | 常滑型(流し込み・彩色のみ) |
創作の立ち福助2種 瓢箪福助 水兵福助 |
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夫婦福助お福 三種 |
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立ちお福(伏見写し) | 立ちお福 |
お福二種 | かんざしお福 |
香泉人形 |
相良人形 |
起土人形 お福面 |
おじぎ福助 瀬戸物 |