2009/03/21
巡鈴の道
熱田から 伊勢へ
熱田の土鈴
熱田宿 宮の渡し 宿場の宮宿(愛知県名古屋市熱田区)から桑名宿(三重県桑名市)までの海上の渡しで 、かつての官道。1601年(慶長6年)の東海道制定の際に定められた。 東海道で唯一の海上路である。 |
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まきわら船の起源は“津島天王祭”。 さらに歴史をたどると“京都祇園祭”がルーツだと言われています。 堀川沿いには洲崎の天王祭、熱田の天王祭が伝わりました。 |
日本二大天王社として 西の京都東山の八坂神社と共に 東の総本社である尾張の津島神社(津島牛頭天王社)では 恒日授与されている蘇民将来はありますが 蘇民将来の土鈴や 津島祭りの巻藁舟にちなんだ土鈴などの授与や おみやげ品やおもちゃなどは まったく見当たりません かつては 竹バネ仕掛けの玩具や達磨なども 存在したようですが 寂しい限りです 気休めに(笑) 年の初めに流し込みの干支鈴が授与されています なんか考えてくれないかなぁ〜〜〜 |
桑名
連鶴といわれる 一枚の紙から連続して鶴を織り上げる技法は
江戸時代に 桑名市内の長円寺の住職 魯縞庵義道が
18年の歳月をかけあみ出したものといわれています
49種類の折り方があり 「千羽鶴折形」という本にまとめられ
世界最古の折紙の本といわれています
吉兆長寿の霊鳥として親しまれた鶴を折り紙にして
城主松平家の家紋(梅鉢紋)をいれ
土の柔らかさで表現したのが この鶴土鈴だそうです
員弁郡「森井伸也」氏原案で
福岡県の「埴矢寿彦(村松幸則)」氏製作です
多度大社の上げ馬絵馬土鈴(藤井陶楽)
南北朝の頃より始まる多度祭り最大の神事で
騎手に選ばれた若者が
境内の2メートルほどもある絶壁を駆け上り それにより
農作の豊凶や 景気の好不況など 様々なことを占ないます
四日市
山車人形の「大入道」の 紙で出来たからくり |
鵜の森神社土鈴
(起土人形)
「うのもり」の文字が浮出ています 伊勢の国 四日市浜田
文明2年(1470年)に築城の浜田城があったところで
浜田城主の先祖といわれている
俵藤太 (藤原秀郷 鎮守府将軍)
(平将門を倒したことや三上山のムカデ退治の伝説で有名)や
初代城主田原忠秀らを祀っています
現在は 神社と鵜の森公園になっており
神社には 十六間四方白星兜鉢(国指定重要文化財)が 保管されています
備考 [兜]高一寸五分
於茂千也函(おもちゃばこ)
三重県四日市市富田
伊藤吉兵衛(蝠堂)氏は 明治38年8月20日 酒造を生業とする素封家の家庭に生まれ
名古屋地方の郷土玩具に異常な熱意をもち その蒐集と研究に専念された
自宅脇に 酒蔵を改造した郷土玩具の収蔵庫が二棟あり
ひとつは 児童文学者の巌谷小波(いわやさざなみ)の命名による 「於茂千也函」
もうひとつは 川崎巨泉命名(郷土玩具研究家・おもちゃ絵画家)の「蝙蝠堂」です
その玩具の蒐集数5万点に及ぶといわれています
昭和9年2月 収集中に破損などした玩具を慰め慰霊するため
於茂千也塚と小祠を建立し 於茂千也祭を主催しました
趣味活動として「古茂里」「草紙」などを発行し 名古屋の四光会の責任者として活動されました
「蝙蝠堂」は 昭和34年9月の伊勢湾台風により壊滅的な被害を受け なおかつ道路拡張の工事などもあり
現在は取り除かれて からくも残った 「於茂千也函」に 破損を免れた多数の蒐集品が今も納められています
伊藤蝠堂氏は 昭和36年6月5日に亡くなられています
壬申の乱のとき 吉野から 美濃へ向かっていた大海人皇子(後の天武天皇)が
増水した川を渡る折に鹿に鈴をつけて渡ったという伝説があります
今では 篶竹(すずたけ)の生育地からきているという説が有力視されています
津
唐人踊り土鈴(藤井陶楽)
唐人踊りで有名な 津まつりは、津八幡宮の祭礼として
寛永年間(1624〜1644年)に始められたといわれています
第2代藩主の藤堂高次が奨励、保護したことから
山車や華やかな衣装を着けた行列で 盛大に行われるようになりました
江戸時代に朝鮮から幕府へ派遣された外交使節(朝鮮通信使)の
風俗を模したものと伝えられていましたが
戦災で山車、練り物 衣装、楽器、小道具などが被害を受けて仕舞いました
そのため 戦後しばらく途絶えてしまいましたが
昭和31年に分部町に保存会が組織され 復活して
昭和33年には市の無形文化財に指定、
平成3年には戦災を逃れた大幟(おおはた)一流れとともに
県無形民族文化財に指定され その伝統を守っています
松阪
本居宣長(もとおりのりなが)遺愛鈴
(伊勢松阪萬古陶鈴)
本居宣長は 1730年(八代将軍吉宗の治世の時代)
伊勢の国 松阪の木綿商の家に生まれました
11歳で父を亡くしてのち 母の勧めで医業を修めるかたわら 古学を志し
賀茂真淵と「松阪の一夜」の出会いの後 その弟子となり
古事記 源氏物語などの研究をしました
書斎で 赤い紐に小さな鈴を六個ずつ六ヵ所に結びつけ 床の柱にかけて
勉強に疲れると その鈴を鳴らし 心身を癒し その音を愛し
自作の和歌を口ずさんで この鈴の音と唱和をしたといわれています
それゆえ この書斎を自ら 「鈴屋」といいました
宣長が 鈴を愛しているという事を知った門人達が 競って宣長の元に鈴を送り
現在も残されている 七つの鉄と青銅で作られた古鈴が それで
遺愛鈴といわれるものです
宣長は 常に近くに置いて愛玩したといわれています
この七つの鈴を この地方の萬古焼の技法で土鈴にしたものです
(佐久間芳山)
駅鈴 隠岐の国造家伝来の型により鋳たもの 松平周防守から下された物で 唐胴製の中型で駅鈴の2文字が刻んであります |
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茄子形古鈴 唐胴製の大型で上の方に横帯紋があります |
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人面鈴(鬼面鈴) 妙法院の宮から下された物といわれ 中国漢代の作と伝えられています |
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三鈷鈴(十字鈴・三つ鈴・三つ独胡鈴) 神路山から掘り出したものを 天明年間荒木田尚賢から送ったもので 唐胴製の珍しい形のものです |
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八角鉄鈴 翁が京都へ上がったとき古型より鋳させた物で 鉄製 沙綾型地紋があります |
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養老古鈴(巾着型古鈴) 養老年製の文字があり 唐胴製の小型 |
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八角駅鈴 唐胴製の中型のもの |
三十六鈴の柱掛鈴
この鈴は 宣長の考案した形で 小さい鈴を6個ずつ6か所に
赤い緒に結び 柱などに掛け 緒を振って鈴を鳴らすようにしたものです
宣長は この鈴を書斎(鈴屋)に掛け この鈴を振って
その鈴の音を愛し 心の憂さを晴らしたといわれています
これはミニチュアで 鈴は3個ずつ(1ヶ所欠落)5ヶ所に結ばれています
三重県松阪市 駅鈴堂作
伊賀上野
伊賀上野だけではなく 三重県を代表する土鈴でもあり
土鈴番付では 西の横綱に押されています
寛永7年(1630)7月 備前国岡山藩士の河合又五郎が 同僚の渡辺源太夫を 私情から突発的に殺害したことに始まり 兄である渡辺数馬が 姉婿である荒木又右衛門を筆頭に 4人の助太刀のもと 仇 又五郎を見事討ち果たしました(寛永11年) 日本三大仇討ちの一つといわれ 世に言う荒木又右衛門の三六人斬りといわれる事件です それにちなんだ土鈴を 初代陶楽さんが作成されています |
外宮 | 内宮 |
伊勢神宮より毎年干支の土鈴が頒布されています
素焼きだけのものですが お伊勢さんで頂くと
なんかありがたいような気分になるから摩訶不思議
何事も気のもんです
干支の土鈴 (高橋毅ヲ)作
志摩
伊勢志摩国立公園の英虞湾に面した 風光明媚な広苑の一角に この鈴のミュージアムがあります まさしく土鈴のためだけの建物です 玄関を入ると右左に2つの展示室があり どちらにもぎっしり土鈴の展示がしてあります |
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テーマ別に沢山の土鈴を見ていると飽きる事がありません 例によって あーだこーだといいつつ 内容の濃い展示を 愉しく拝見させて頂きました 北海道から沖縄までの 日本全国の土鈴が展示され その収蔵数は約15000点あるそうです |
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「神戸土鈴友の会」会長の 山田旺(あきら)さんが収集されたものを 山田さんの知人である同館大山館長が 譲り受けられました 山田さんは もともと歯医者さんだそうで そのため、大臼歯を象ったオリジナル土鈴が 象徴的に飾ってありました 本物の歯にそっくりに作られているそうです |
探せば まだまだ沢山の土鈴があると思いますが
楽しみは少しずつ
その地を訪ねて見つけることの喜びも 楽しみの一つですので
土鈴との出会いを楽しみに また伊勢路を巡りたいと思います
三重にある 土鈴工房・窯元の 一部を 紹介します
岐阜県白鳥町の『日本土鈴館』の 展示より
(一部の工房については 現在製作されていない所もあります)
伊勢の観光土鈴 | 伊賀焼窯元 松尾陶芸園 |
松古窯 松阪市 | |
方隆窯 名張市 | 御浜窯 御浜町(趣味家) |
四日市土鈴 藤井陶楽 | |
宮崎屋陶房 上野市 | いっき陶苑 伊勢神宮 |
このHPは 岐阜県白鳥町の『日本土鈴館』より 画像の一部を協力していただいています