2009/04/04
中島さん御夫婦 作業場にて |
愛知県尾西市富田産 江戸時代中期の頃 名古屋で製作技術を習得した陶工が この地で創始したものと云う 犬山の土人形の影響を多く受けているが 棚尾土人形の傾向で 大型で歌舞伎物を題材とした物が多い 現在は五代目の 中島一夫さんが製作されていたが 高齢によりほとんど製作されていない 主に岐阜の美江寺の蚕鈴のほか 歌舞伎物 武者人形 が作られていた 2003年11月 |
2005・6・21追記 休み明けの半日を利用して 一宮市の尾西歴史民族資料館へ出かけてきました 起土人形の作られているこの地は 最近まで尾西市でしたが 平成の大合併で一宮市となりました これだけ沢山の合併があると 歴史とか風俗とか 昔からのイメージが全部崩れてしまって 頭の中で中々整理できなくて困ります かえって 字とか小さな範囲での呼び名で 判断した方が解かり易いかも知れません |
起土人形の作られている冨田は 中島郡冨田村→大徳村冨田→起町冨田 →尾西市冨田→一宮市冨田 と こんな具合に変わってきたわけです 冨田人形と呼ばれることも多いのですが 収集家の間では この地域の中心であった起(おこし)宿の名前を取り 起土人形・起土鈴として親しまれています かつて沢山作られた土人形が 歴史民族資料館で一堂に見られると聞いて 行って来ました |
2005年12月5日 師走に入って早々 起土人形 中島一子さんを訪問いたしました
ご主人の一夫さんが昨年亡くなられてから 一周忌も過ぎ 寂しさの中にも幾分落ち着かれた生活をされています 一度は止めてしまおうと思われたこともあったようですが せっかく連綿と続いたこの土人形作りが 途絶えてしまうのは残念だとの周囲の声に背中を押され 沢山は作れないながらも 楽しみながら 製作をされています |
お茶にお花といった芸事にくわえて
六十七歳から七十の手習い(?)の 書道を勉強されているそうです
幾つになっても勉強とは思うのですが その姿勢に敬服です
一日の午前中は 教室のお仲間などお出かけやおしゃべり
午後からの空いた時間で人形作りとか
とはいえ 生地作りや彩色など 座ってすぐ出きる物ではないので
日頃から段取りと準備をきちんとされておられるのでしょう
後継者のお話も少しばかり伺いました
コンピューター関係のお仕事をされている 息子さん(53歳)も
一夫さんが亡くなられてから 先々は僕がすることになるかもしれないから
型とか道具は残しておいてくれよといわれ
興味を持ってというと おかしな話ですが
家のこととか 土人形に少しずつかかわる様になったとのお話
しばらくすると 一子さんとご一緒にお仕事をされている姿を
拝見できるのではないかと期待しています
その後、春先に 『お人形が 出来上がりましたよ』と ご連絡頂き
毎年お伺いさせて頂き お会いしているのですが
初めてお伺いした時よりも 元気で若々しくなっていかれる様に感じられます
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一宮のおん馬 一宮市真清田神社で 4月3日の桃花祭の折勢ぞろいする飾り馬の姿を 模した物で 白馬の鞍上に御幣を立てたいでたち その目の表情は なんともやわらかで 柔和で温厚に描かれている |
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熱田成福寺 厄除け船鈴 文化10年 名古屋の舟 督乗丸が 江戸からの帰途 台風に出あい 遭難し以来17ヶ月太平洋を漂流し 生き残った船頭重吉はメキシコ アラスカを経てロシアへ連れられ 後に出帆より5年目にして名古屋へ帰りつく事が出来た 重吉は 戦中で没した水夫達の諸霊を慰める為 督乗丸をかたどった舟形の台石の供養碑を建てた その督乗丸を模した土鈴である |
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岐阜美江寺の蚕鈴 美江寺の蚕祭(旧正月晦日)に境内で売られた縁起物で 古くから養蚕の盛んなこの地方で 信仰を集めており. この土鈴を買い求めて 蚕室につるしておくと 害敵の鼠を除き 蚕がよく起き上がると信じられ 増殖多産を招くとも云われる |
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名古屋七所社の きねこさと壺 名古屋市中村区岩塚にある七所社で きねこさ祭に使用する 祭具の杵と こさ(杵か らこすり落とした餅の意)に由来し 役者のもつ祭具に触れることにより厄除けが出来るとされる この所作に使われる杵・こさ・種つぼを模った玩具である |
古い起の土人形
蚕鈴 美江寺の蚕祭(旧正月晦日)に境内で売られた縁起物 古くから養蚕の盛んなこの地方で 信仰を集めており. この土鈴を買い求めて 蚕室につるしておくと 害敵の鼠を除き 蚕がよく起き上がると信じられた 増殖多産を招くとも云われ 盛時には 寺の沿道にズラリと土鈴の店が並んで 「上機嫌 上機嫌」と呼び合い売り競ったといふ この土鈴は 艶やかな原色で彩色し ふんだんに金粉をまぶし いかにも田舎風の 豪奢さを発散している 繊細さは無いが 素朴な味わいは棄てがたい物がある |