近江八幡の祭礼玩具

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左義長まつり

近江八幡の左義長まつりは、織田信長が安土城下で毎年正月に盛大に繰り広げ、
自ら異粧華美な姿で躍り出たと「信長広記」にも記されている天下の奇祭です。
信長亡きあと豊臣秀次が八幡山城を築き、
それにつれて安土から移住した人々を中心に八幡町が開町されました。
日牟礼八幡宮例祭「八幡まつり」の荘厳さに驚いた町民は、
開町による新進気鋭の喜びを込め厄除け、防火の由緒ある御神徳を仰ぎ、
左義長を八幡宮に奉納したと伝えられています
。しかし、現在の左義長まつりは、近江商人の隆盛によって、
商売繁盛を祈願するまつりとしての意味合いの方が強いようです。
左義長は、
新藁で美しく編んだ約3メートルの三角錐の松明の上に数メートルの青竹を立て、
細長い赤紙や薬玉、巾着、扇などで飾られます。
左義長の中心には意匠をこらした「だし」が据え付けられます。
「だし」はその年の干支にちなんだものを海産物や穀物等の食物で作り上げられます。
1月中旬頃から始まる左義長づくりは、
毎晩各町内で手間や経費を惜しまず行われます。
3月中旬の土曜日、昼ごろから日牟礼八幡宮に参集した十数基の左義長は、
午後2時、踊り子と呼ばれる女装した若衆たちの
「チョウヤレ、マッセマッセ」のかけ声も勇ましく渡御(巡行)に出発します。
渡御を終えた左義長は再び日牟礼八幡宮に戻り、
ここで左義長だしコンクールの結果が発表されます。
翌日曜日、各町の左義長は、再び「自由げい歩」で旧市街地を練り歩き、
「けんか」と呼ばれる左義長同士の「組み合わせ」があちこちで繰り広げられます。
全員が力を振り絞って相手の左義長を倒そうと懸命になり、
若衆のかけ声と観衆の声援でまつりは一気に盛り上がります。
そして、まつりのクライマックスは何といっても夜の火祭り。
午後8時、同宮境内で5基の左義長にまず一斉奉火され、
以降20分毎に順次奉火されていきます。
燃え盛る左義長が夜空を焦がし、その周囲を火の粉を浴びて若衆が乱乱舞する様は、
まさに湖国に春を告げる風物詩です。

左義長山車 花笠 拍子木
(株)滋賀工芸  近江八幡市中村町20‐16

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八幡まつり(松明まつり)

秀次の八幡開町以前からある旧村落十二郷の氏子によって行われる八幡まつりは、
千数百年の歴史を今に伝えます。
松明まつりと呼ばれる14日の宵宮祭は、
ヨシと菜種がらを材料にした各郷の松明が奉納され、
その大きさは10メートルを越えるものもあります。
また、当日の朝8時半からは、上ノ郷と下ノ郷の代表者によって
笹竹を材料にした「大松明結い」が日牟礼八幡宮の境内で行われます。
夜の7時半、大太鼓と鉦を囃しながら、上ノ郷は正面鳥居から、
下ノ郷はロープウェイ駅方面から宮入りが行われます
。8時の打ち上げ花火を合図に、引きずり松明やとっくり松明、
振り松明、船松明を含む大小各種30本余りの松明が
古例の順序により次々と奉火されます。
松明の壮大な火柱は夜空を見事に光り輝かせ、10時頃まで燃え続けます。
翌15日の本祭は太鼓まつりといわれます。
3時半頃、太鼓宿を出発した十二郷の大太鼓は、
4時から6時頃、荘厳な響きとともに古例の順序に従い
日牟礼八幡宮の楼門から宮入りします。
そして拝殿の前で大太鼓を差し上げ、神職・神役などの祝詞を受けます。
大勢の若衆の肩にかつがれた大太鼓が境内を勇壮に練り歩く光景は、
伝統の重さを感じさせます。