2009
名残りの郷土玩具
丑
名残りとは
ある事柄が過ぎ去った後に、なおそれを思い出させる
気配や余韻・影響。人との別れを惜しむ気持ちを意味し
牛歩の歩みで始まった牛年 2009年も後わずかとなりました
自民党から民主党へ政権が移り 世の中の変わりようは
牛歩ではなく 急変しているようにも思えますが
ただ 私たち庶民の生活は 不況が続く中で
牛さんの様に 黙々と働き 一歩一歩
確かな歩みをしていくよりないようです
来年は 今年より 笑顔の多い年にしたいものです
小幡人形 (滋賀県) 牛乗り天神 細居文造作
岡崎天満宮(愛知県) 牛乗り天神 乙川土人形製
宇和島張り子(愛媛県) 横綱牛
竹牛(岡山県) 津山の吉備牛
赤べこ(福島県) 会津張り子
金べこ(岩手県) 花巻市 黄金牛 昭和36年の年賀切手
高松張り子(香川県) 宮内はる
晩秋の郷土玩具
木の馬
八幡馬(駒)・木ノ下駒・三春駒の三駒に代表される 東北地方の馬の木地玩具
馬は 唯 単に干支の一つの馬としてではなく
現代にたとえるなら 車であり 作業機械であり
それ以上に生活で欠かすことの出来ない仲間であり 相棒でありました
全国各地には まだまだ沢山の著名な馬玩具があります
その馬の郷土玩具のごくごく一部ですが
個性あふれる 馬の玩具に触れる事によって
馬の郷土玩具の広がりと 面白みを感じていただければ うれしく思います
弘前馬コ 木下駒(日本三駒) | 八幡駒(日本三駒) |
三春駒(日本三駒) |
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奈良井 パカパカ馬 | チャグチャグ馬コ 弘前馬コ |
初秋の郷土玩具
浜松張子 明治の初年 旧徳川の幕臣三輪永保(ひさやす)の手により 江戸在住当時の技術で 製作を開始されました その後 その子永智が伝承し さらに永智の六女 二橋志乃が製作に従事し 戦災の苦難を乗り越え 広く郷土玩具の世界で 「浜松張子」として親しまれてきたものです 現在も 志乃の長男の妻 加代子さんが 伝統の浜松張子の制作を続けられて 伝統を守られています 柿乗り猿 鳥神楽(とりかぐら) |
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静岡張子 沢屋は 静岡での張子造りのもっとも古い店で 安政元年に開業 現在は初代より四代目となる 杉本栄司さんが 頑張って製作されています この静岡の東海道の虎と云われる張り子の虎が 来年2010年(寅年)の年賀切手に採用されました ダルマ抱き小僧 祝鯛 |
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静岡県森町大洞院の 次郎長と石松の張り子達磨 静岡県周智郡森町にある大洞院で授与されているダルマです 石松のお墓があり 石松の墓石の欠片を持っていると ギャンブルに強くなるという俗信があり 石松の墓は何度か作り変えられたそうです |
高松張子の第一人者として 百歳を越えるまで 現役で生涯を張子作りに 捧げられた 宮内フサさん |
四国高松の郷土玩具を こよなく愛され 復元や保存に尽力された 大崎豊五郎さん |
高松張子の伝統を 守り続けている 乃村タツ子さん |
高松張子を それぞれが個性的で特徴の在る人形作りで
四国を代表する郷土玩具として
その伝統を 守り続けてこられました
この奉公さんは 平安時代 祓いの信仰から発生したもので 婢子(ほうこ)から転化したことを物語っていて ほうこさん(ほうこうさん)という名前も それに起因しています この種の人形は 倉吉の「はこた」 大阪や広島県でも「おぼこ」などと呼ばれ 各地に多く見られました 近くでは 現在では廃絶してありませんが 三重県津市でも「おぼこ」がありました |
倉吉の「はこた」 |
きじ車 福岡県山門郡瀬高町 徳永安太郎作 清水観音開祖の伝教大師(最澄)が 東山の奥深く光り輝く霊木を目指して登山の途中 大変難儀をしていたとき 一羽の雉が飛んで来て 道案内をしたという謂れから 文政から嘉永年間にかけて創案されたと伝えられています |
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カチカチ車(かささぎ車) 佐賀県杵島郡恵比須町 新里真紗生作 カササギは 豊臣秀吉朝鮮征伐の際 鮮人陶工と一緒に 鍋島公が持ち帰ったといわれ この鳥を記念する意味で カチ餅なるものを拵えさせ その鳴き声がカチカチと聞えるので勝鳥と名付け その餅を食しながら鑑賞したそうです |
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きじ車 熊本県人吉市 宮原健雄作 平家の落ち武者が 人吉の山奥に隠れ住み 生活の糧に木地玩具を手作りして 人吉の「えびす市」に売ったのが始まりといわれ この地方に多い赤い椿の花を描くのは 平家の赤旗に因んだものとも伝えられています |
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鶉(うずら)車 宮崎県地方の独特の木地玩具で タラの木をはずに三角に切って車をつけたもの いたって単純で原始的ではあるものの 眺めているだけで味のある玩具です 謂れは 朝鮮半島よりこの地に帰化した老翁が 百歳を迎えた記念に 仁王門や仏像を刻んだ木材の残片を集めて 鶉車を作り 寿命を授けようといって 近在の子供たちに分け与えたのが始まりと伝えられています |
加藤清正
豊臣秀吉の家臣として仕え数々の武功を挙げた智勇兼備の武将 加藤清正
信長亡き後、織田家の後継人の座を巡って
柴田勝家と羽柴秀吉が対決した賤ヶ岳の戦いにおいて
秀吉の勝利に多大な貢献をした七人を称える「賤ヶ岳七本槍」にその名を連ね、
朝鮮出兵の際には襲い掛かる虎を退治したり
朝鮮二王子を生け捕りにする等、数々の武功を挙げました。
関ヶ原の戦いの時には九州で西軍を打ち破り、
論功行賞で肥後52万石の大名となっています。
虎退治など様々な逸話から武辺者として語られる事が多い加藤清正ですが
築城の名手としても有名であり
熊本城や江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わりました。
その他にも治水事業、新田開発事業などにも卓越した手腕を発揮し、
地元である熊本では今でもその功績を偲んで
「せいしょこさん」と呼ばれ人々に親しまれています。
また意外なところでは、日本に初めてセロリを持ち込んだ人物としても知られています。
虎退治
唐入り(からいり:朝鮮出兵のこと)で朝鮮半島に出征したとき、
現地で猛虎の群れと遭遇し、可愛がっていた小姓の一人を食い殺されてしまった。
清正は烈火のごとく怒って虎の群れを襲撃、苦闘の末に見事敵討ちを果たしたという。
この壮挙は日本兵の士気を著しく高めたにとどまらず、
人食い虎に悩まされていた朝鮮の人々をも大いに喜ばせた。
秀吉の居る名護屋城(なごやじょう)には
千畳敷の虎の皮と強精剤の虎の肝が山のように届き、
清正虎退治の武名は日本中に轟いたのである。
清正は、十文字槍の片側がかけ落ちている片鎌槍(かたくらやり)を愛用していたが、
これは虎退治のとき猛虎が片側を噛み砕いてしまった名残だという。
御坊張子 | 三河旭土人形 | 大浜土人形 |
名古屋土人形 昔の勉強する子供二題 立ち娘
三河旭土人形 二宮 尊徳 昔の子供二題 犬を連れた子供
かつて 小学校の校庭で必ず見られた 二宮尊徳の像
現代の学校にも立っているのでしょうか
懐かしさと 思い出の一部になっているかも知れませんが
4月 入社や入学とか進級 新たな人生のスタートの季節です
通称は二宮金次郎。
尊徳は一般には「そんとく」と読んでいるが、正式の読みは「たかのり」。
小田原市栢山に生れ、向学、勤勉、貯蓄のモデルのような一生を送った
財政再建の専門家で、報徳運動の元祖
少年期に父母を失い、災害で没落した家を独力で再興した。
この体験をもとに 天地人三才の徳に報いることを説き 報徳思想を形成。
また、家・村を復興して興国安民を実現する仕法を体系化した。
文政5年(1822)に小田原藩に登用され、
天保13年(1842)には普請役格の幕臣となる。
関東とその周辺の諸藩領・旗本領・幕領・日光神領の
復興や個別の家・村の再建を依頼されて指導した。
この二宮尊徳の土人形は
三河旭土人形の 高山八郎氏の兄 良一が型起こしをしたものです
良一は 若くして原型を起すなど 土人形の才能に恵まれ
将来を嘱望されていましたが 昭和12年支那事変にて戦死されました
いわば形見の品ともいえるもので 弟の八郎氏がその型を守り
製作されたものです
子供の勉強や舞のしぐさの人形は 明治 大正 昭和の初めころの風俗でしょうか 親の世代(大正生まれ)の思い出かもしれませんが ある意味 古きよき時代だったのかもしれません |
そのころの中学生が 洋犬を連れている姿を映したものです 昔からの日本犬ではなく 外国の犬というところに 当時の流行に敏感な 土人形師の思いが表れているようです |
御雛様
姫の土人形
昭和40年6月 姫土人形の内裏雛です
渡辺一夫と背面に墨書のサインがあります。
通常 姫の人形は和紙に朱印が捺されたものが貼ってあり
又大概の人形が艶なしで仕上がっていますが、
これはニス塗りで光沢がある 珍しい 良い物です
神戸の震災で落下して 女雛の一部が破損して
それを接着剤で繋いであります
岐阜で作られたものが 関西で飾られ
それが何の縁か 現在はこの地にあります
姫土人形は流し込みで大きさのわりに軽いのが殆どですが、
この内裏雛は両方とも非常に重く出来ています
型押しから流し込みに変わった初期の物だからかもしれません
男雛で29X25センチの大物の 珍しい内裏雛です
高山の土人形
五人揃
飛騨高山の渋草焼きの陶工であった 岩信成が
大正の中頃に 富山・伏見・市原・名古屋など
各地の土人形の型を取り入れて
創意工夫を加え 独自の土人形として作られたものです
飛騨地方唯一の土人形として
現在もその娘の光子さんが土人形作りを守られています
とりわけ 節句飾り用の雛揃いは 独自の創案による独特のものです
干支物に変わって 起土人形の
十人揃えの土鈴仕立ての お雛様を飾っています
三河万歳
(三河旭土人形)
100年に一度といわれる世界的大不況の真っ只中
落ち込んでばかりもいられません
ちょっと景気付けに
賑やかな 三河万歳で楽しんでみましょう
太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)が賀詞を掛け合いながら舞い、
新年の訪れを祝福する民俗芸能です
地元では地名をとって「森下万歳」「御殿万歳」と呼ばれています
江戸時代には土御門家の支配を受けて江戸を始め、諸国を廻勤しました
三河出身の徳川家によって優遇されて
武士の特権であった苗字帯刀、大紋の直垂の着用が許され
江戸城の元旦の開門の儀式を司るなど全盛期を迎え
明治以降は神道職として続けられたが、
戦後 時代の変化とともに衰退しましたが
平成8年に安城市・幸田町の万歳とともに
「三河万歳」として国の無形民俗文化財に指定されています
この人形は その三河万歳を土人形に写した物です
恵比寿大黒
(三河旭土人形)
景気の悪い時は 神頼み(笑)
七福神の一柱として有名な恵比寿さまは
右手に釣竿 左手に鯛を抱えた漁の神さまです
海のかなたから渡って来た豊漁をもたらす神さまとして
また航海安全の神さまとして 港の近くに多く祀られました
港は船の出入りによって商売が繁昌するので
航海安全は商売繁昌につながり
恵比寿さまは商売繁昌の神様としても有名になりました
なお 10月は各地の神様が 男女の縁結びを相談するため出雲に集るので
神無月と呼ばれ 神様が留守をされるので この期間 地の神様に替わって
私たちを見守って下さるのが恵比寿さまです。
蛇足ですが 恵比寿様は 耳が遠いそうで
恵比寿様をお参りするときは
拝殿の裏に回って 裏から拝殿を叩きながら
お願いをすると ご利益があるとの事
大黒様は 神道の大黒天 (密教の大黒天)が元になり
大国主命と神仏習合して出来た神道の神様で
七福神の一柱としても知られています
豊穣の神として信仰され 食物・財福を司る神様です
微笑の相で 福袋と打出の小槌を持って米俵に乗る 微笑の神様です
御座った御座った
福の神を先に立てて 大黒殿が御座った
1は俵を踏んまえて 2にニッコリ笑って
3に酒を作って 4つ世の中良うして
5ついつもの如くに 6つ無病息災に
7つ何事も無うして 8つ屋敷を広め
9つ小蔵をぶっ建てて 十でとうとう納まった
大黒殿を見なさいな 見なさいな
この大黒舞の口上の様に
不況をぶっ飛ばしたいものでございます
2009年の干支は『牛』
十干十二支でいうと 今年2009年は 乙丑(きのとうし)です
丑は 指を曲げて物を掴むという意味から
精霊が母体に宿る事を表わしています
また 紐でからむ事を表わし
芽が種子の中でまだ伸びられない という状態を表わしています
飛躍の為に力を蓄えるための一年かもしれません
昨年からの厳しさが続きますが
負けずに新しい年 2009年 頑張っていきましょう
和歌山 津秦天満宮 瓦牛 牛が草を喰う事から 子供の瘡(くさ)すなわち 腫れ物を 治すまじないとして授けられたもので 屋根瓦と同じ素材で出来ています |
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新潟 小千谷(おじや)の木牛(廃絶) 先の地震で 大きな被害を受けた山古志村を含む 「二十村郷」に伝わる民俗行事として 古くから牛の角突き(闘牛)が盛んな土地として知られ 闘牛が行われる季節(7月)に これにちなんだ木牛を作って 子供たちに与えられたものです |
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長野 善光寺みやげ 張子の布引牛 牛にひかれて善光寺参り という諺の意味は 思いがけないことが縁で また自分の発意ではなく 偶然によい方向に導かれることをいう 強欲なおばあさんが 突然現れた牛に乾していた布を奪われ 夢中で追っかけて行ったところ 善光寺にたどり着き 改心し 仏心を開き 信仰を深めたといわれています |
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愛知 名古屋土人形 栄国寺の牛 明治の中頃 名古屋の栄国寺の寺内で土人形を製作していた 山田こうの型を 野田末吉が引き継いで製作しているものです 栄国寺そのものとは 何の関係もないということです 角を付けるのが 中々難しいとおっしゃられていたのを 思い返しています |
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愛知 起土人形 筆持ち牛乗り天神 愛知県江南市北野字天神(古知野)の 北野天神社から授与されていましたが 授与は長く続かず、後には神社とは関係なく製作されました 起土人形の独特の表情と筆を持たせた天神は珍しいです |
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京都 伏見人形 牛乗り童子 古い伏見人形です 童子の着ている着物には梅鉢の文様があり 天神さまと思われます これは 写しといわれるもので 天神様に模して牛に乗っています 片手に本を持っているのは珍しいという事です |
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長野 奈良井土人形 牛乗り天神 中仙道の宿場町の面影を残す街道筋で 新しく作り始められたものですが 素朴な中にも郷土玩具らしい 温かみを感じ 存在感と 気品が漂っているようにも思えます |
ことしも 切手になった丑の 郷土玩具と切手を飾させて頂きました