型込 素焼 下塗 絵付
名古屋土人形の饅頭食いは
顔の形が横長で 童子の表情が愛らしい
知多半島の新舞子に【人形塚】が在り
この人形を象ったおもちゃ像が立っている
野田末吉さんが作られたこの人形は、
私の集めた物の中でも、好きな物の一つです
伏見の洗練された端正さも良いのですが
名古屋のとぼけた味も棄てがたい
饅頭喰い人形について
饅頭喰い人形は 教訓ものといわれていますが
謂れ(発祥)につていは良く分かっていません
一成人が一児童に対し 両親のどちらが大切ですかと質問したところ
その児童は手に持つ饅頭を半分に割り
質問者に向かい どちらの饅頭がうまいかと反論したのが大意です
狂言や落語などにも 饅頭にかかわる逸話はありますが
この饅頭喰い人形との繋がりは見られません
江戸時代の文政2年の文献の中に
伏見人形の饅頭喰い人形が掲載されていることから
文政年間(1818年〜1830年)には
既にこの人形が製作されていた事は間違いありません
三井寺の護法善神堂において毎年5月に行われる千団子祭りに
子供の成長や安産を願い
さまざまな子供の姿の土人形が奉納されており
饅頭喰い人形も含まれています
関西では 花街や商売家でこの人形を神棚等に祀り
商売繁盛 千客万来を祈願したともいわれています
京都東向き観音堂の饅頭喰いを奉納する風習も明治30年以降の事で
明治8年から明治30年の間で
この人形が子授けや健勝の祈願へ変化した様に考えられます
そのきっかけは 錦絵の新聞で明治8年に発行された
大阪錦新聞で饅頭喰い人形の偶像の流行の期限がとりあげられたことが
大阪新聞や東京日日新聞の記事となり
それが饅頭喰い人形の逸話として常識化していったものの様です
逸話が伝説になり 真実になったのかもしれません
親が子供の成長や健康を願い
賢い子供に育ってほしいと思うのは普通でしょう
子を思う親の思いは 永遠のものかもしれません
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名古屋野田型の饅頭喰い
碧南市の 三河旭土人形の高山さんに
饅頭喰い人形を作っていただいたのがきっかけに
饅頭喰い人形の無い 土人形の産地の方に
作っていただけ無いものかと
困った考えが頭に浮びました
ひとつの型で 各地の作者による個性的な饅頭喰いが出来れば
それぞれのその地方の特色を比べられるのではないか
伝統の作風を引き継いだうえに 従来なかった新しい創作の試みを
野田さんの饅頭喰いの型で 試してもらえるのではないかと考えました
何名かの先輩 先生方に相談させていただいて
有志 十名ほどのメンバーで
各地の産地の製作者の方にお願いすることとなりました
名古屋の野田さんの饅頭喰いの型で それぞれ各地の土人形の
特色のある人形を作っていただくのであれば 贋作を作るわけではありません
あくまでもそれぞれの産地のオリジナルとして製作を依頼しています
基本的には その産地に饅頭喰い人形が無いという事が前提ですが
作者さんに同意していただけるのであれば
どちらの産地でもお願いさせていただいています
無論 この企みは 伏見人形でというわけには参りませんが
これからも 各地の作者さんにお願いし 挑戦してみたいと考えています
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旭土人形
(高山八郎 作) 八郎氏の父 高山市太郎は
豊橋で土人形を始めた杉浦幸次郎に師事し
修行を終えてのち 旭土人形の創始者となって
三河土人形制作の多くの弟子を育てました
現在製作されているのは
その市太郎の四男の八郎氏です
高山家の作品は 彩色に明るい緑と
朱に近い赤を用い 瞳が特に大きいことです
翁は 2012年7月に89歳で亡くなられる
1週間ほど前まで人形作りをされ
生涯現役を通されました
色違いや
顔の表情の違う人形を
お願いしてみました
泣いたり 笑ったり
怒ってみたり
まさしく人生そのものです(爆)
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大浜土人形
(禰宜田徹 作)明治25・6年ごろ美濃部四市によって始められたが
四市が日露戦争に従軍し戦死したので兄の泰作が後を継いだ
大浜土人形も棚尾と同様に 歌舞伎外題物が大半を占めているが
棚尾と比べて 色彩が明るく 一段と華やかである
一方 禰宜田佐太郎は一度も師に付くことなく
自らの創意工夫で人形作りを開拓し
武者物を得意とし 組み物の多い尾三の土人形のうちでも
賤ヶ岳 加藤清正と山路将監正国(四方田但馬守)の
大物にいたっては他の追随を許さない
佐太郎の死後は 章が後を継ぎ 一時製作を中絶した事もあるが
再び開始して 三河唯一の作者として大浜土人形の声価を高めた
彰亡き後 現在は その二男の禰宜田徹さんが
大浜土人形の伝統を守られています
名古屋の野田さんの
しっかりとした型なので
ぜひとも作りたいという事で
製作していただいたのですが
この人形を見られた方が
是非にという事で
追加製作をお願いされ
それが 線描きの練習になって
随分細い線まで描ける様になりましたとのこと
正直な話・・ 痛し 痒し(笑)
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瞼に少し赤味がある子と
入っていない子
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彩色・キラ入り彩色
彩色無し |
きらら鈴
(松田克己 作)
きらら鈴は
吉良上野介の所領の三河吉良の山々は
かつてより雲母の産地として有名で
特に 西尾市八ツ面山(やつおもてやま)の
良質な雲母は広く認められており
かつては朝廷に献上されたほどであったそうですが
明治の頃には 殆ど掘り尽くされて
発掘人夫等の犠牲者なども多く出た為
採掘が中止されたそうです
その頃の この地の陶工 加藤熊蔵の手により
その霊を慰める為「きらら鈴」が作られ
祭礼等で木の枝にぶら下げて
御魂を迎え祭ったのが始まりといわれています
焼き〆られた音色の良さと
丁寧で写実的な作品が特徴です
今までたくさんの土鈴や作品を作って来たのに
人の形というのは初めての事で おっかなびっくり(笑)
何十年と製作されていたのに
不思議な感じです
この人形の製作により
子供や人も
作ってみたくなったそうです
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起土人形
(中島一子 作)
江戸時代中期の頃
名古屋で製作技術を習得した陶工が
この地で創始したものといわれ
犬山の土人形の影響を多く受けているが
棚尾土人形の傾向で
大型で歌舞伎物を題材とした物が多くあります
現在は亡き五代目の 中島一夫さんの
妻である一子さんが
伝統を守り製作されています
主に岐阜の美江寺の蚕鈴のほか
歌舞伎物 武者人形 が作られていました
起土人形独特の色彩で
その素朴な味わいには 棄てがたい物があります
男の子なのか女の子なのか
迷ってしまって
4色に塗り分けてみました
頭の髪形なども どのようにしたものか 難しいです
女性らしい優しいタッチの人形になりました
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堺湊焼
(津塩吉右衛門 作)
住吉大社は 神功皇后が、新羅遠征の帰途に
海の神である住吉大神を祀ったのが 始まりとされる神社です
大阪の鎮守神で 摂津国一宮でもあります
その住吉さんの 授与品 お土産品として 住吉土人形がありました
江戸の中期に 北尾安兵衛という人が伏見人形の作技を身につけて
創始したといわれています
現在は 堺土人形(湊焼)津塩家にて製作されています
南蛮人形や小型の泥面子 船待ち天神
海に因んだ縁起物などが多く作られました
大阪らしい個性的な作品で知られています
昔の伝統あるお人形を
少し明るく 現代風に
アレンジいたしました
坊ちゃんは 大阪で云う
「ぼんぼん」のイメージです
という嬉しいコメントを
頂きました
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浜松張子
(二橋加代子 作)
明治の初年 明治維新により禄を離れた
旧幕臣三輪永保(ひさやす)が
反古紙を使って張子玩具を創作し
江戸風の張子玩具を作ったのが始まりで
子どもの永智に 張子の技術を習得させて
父子二代でいかにも武家好みの
気品有る独自の張子を製作しました
その後 第二次大戦の戦火で
木型を全て焼失してしまいましたが
妹の二橋志乃により木型などが復元され
製作が復活し引き継がれました
現在は 志乃の息子さんのお嫁さんの加代子さんが
四代目として 浜松張子の伝統を守り続けています
浜松張子は 動物を主体とした作品が多く
ころがしと呼ばれる 車ものや 首振り 起き上がりなど
動きを取り込んだ玩具に特色があります
侍風の饅頭食いとは
思いも寄りませんでした
裃の片方を 遠山の金さん
みたいに脱がしたのは
お侍さんが 畏まって
饅頭を食べるというのは
ちょっと窮屈いだろうから
リラックスさせようという
二橋さんの茶目っ気から
考えられました
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富山土人形
(古川圭子 作)
嘉永年間(1848〜54)と山十代藩主 前田利保が
名古屋の陶工 加藤家の陶器職人であった
広瀬秀信を富山に呼び千歳御殿に
窯を築いて千歳焼を作り ついで その子安次郎が
陶器の傍らに天神臥牛を焼いて献上したのが
富山土人形の始まりであります
江戸末期以後 発展して民間信仰 縁起物
あるいは子供の玩具として数多く作られてきました
代表的なものとしては学問の神様である「天神様」
桃の節句に飾られる「抱き雛」があります
当時 城下に土人形家は数軒ありましたが
広瀬家より技法を学んだ
渡辺家「平 源吾 信秀」だけが家業として
伝統を守り続けてこられました
信秀氏が亡くなられてからは 土雛窯と伝承会が
その製作技術を引き継ぎ製作されていますが
古川さんは 古来からの製作法にこだわり
土雛窯の代表として製作に励まれています
富山らしさとかをどう出そうかとか 散々悩まれたようで
どう考えても 思うようにいかず
開き直って 自分が出来るのはこれしかないと
半ば 無の境地で 自分らしさのみを考えて作られたそうです
女性らしさの滲み出た 愛らしい饅頭喰いさんで
彩色の一部に 富山独特の紫が使われ
やっぱり 富山だと納得
繊細で 丁寧な仕上がりの可愛らしい人形です
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今戸人形
(白井裕一郎 作)
東京都台東区浅草今戸
一説には 天正年間に家門断絶した旧城主江戸氏の遺臣たちが今戸に土着し
この一帯の粘土を利用して窯業をはじめたと云われています
江戸時代初め 慶長年間(1596〜1615)以後
江戸の町づくりに必要な 瓦 土器の生産がこの地で行われ
今戸焼と言われました
人形は その傍ら生まれたものです
その土に関しては 他の土地に比べても良質とは言い難く
高級な磁器や焼き物というわけではなく
瓦や土器として庶民の生活の中に溶け込んでいきました
人形は 京都の伏見人形から多大な影響を受けつつ
独特の個性を生かし 簡潔な彩色 小型物で安価で洒脱な
江戸好みという独自の持ち味を持って発展しました
元禄時代には 一文人形を扱う専門の問屋まで現れて
土人形の制作もさらに盛んとなりました
幕末にかけては 今戸人形独特の題材を生かしたものが数多く誕生し
近郊へも販路が広がり 大衆の支持を得て隆盛を迎えましたが
明治13年頃には 衰退して 一時この土人形は姿を消しました
その後 大正12年 関東大震災後 発掘をされた人形の型により
尾張屋金沢春吉が 今戸人形復興に尽力し 製作されました
しかし 翁も第2次大戦前に亡くなり
今戸の土人形は廃絶してしまいました
現在 戦後 今戸焼本流の土器を製作していた白井家が
人形を求める趣味家の希望に応じて 尾張屋の型を土台にして何種か復活され
当代の裕一郎氏も近隣の廃絶された制作者より型などを譲り受け
今戸人形の伝統を守り 新たな今戸人形の創作にも意欲的に
積極的に制作されています
お願いして その場で型抜きをしてもらって
其れから3年・・・・・
白井さんのまじめで几帳面な性格が災い(笑)
ずいぶん悩まれて 考えて考えて
他所の産地の型より抜いた人形を
どのように今戸らしく表現するか
心の葛藤があったようです
日頃のお仕事の忙しさに加え
厄介で面倒 ややこしい話を持ち込んだものですから
本当に迷惑をかけてしまいました
待ちに待って完成した人形は
今戸の特色を出した 図柄になり
他には無い特別な饅頭喰いさんになりました
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今戸人形
(吉田和義 作)
東京都北区
今戸人形の研究者で
金沢春吉のご遺族の方より承諾を得て
今戸人形の復活を目指して頑張ってみえる吉田氏は
いまどき人形の名前で製作をされていますが
尾張屋型今戸人形と名乗ってもよいのではと思います
戦前の尾張屋金沢春吉の彩色を元に
今戸人形の復元 復興を目指され 精力的に制作されています
吉田さんは 昔ながらの今戸焼を目指して見えます
再現 復活とはいえ もうすでに見る事が出来なく
あくまでも推測で製作しなければならない部分もあり
さまざまな遺物や数少ない残されたものを参考に
精力的に製作されています
今回の人形の彩色は
@ 明治以降調の朱色の泥絵具
A 江戸時代調の「キハダの煮出し汁」 の黄色
B 江戸時代調の「スオウの煮出し汁」 の
ワインレッドと緑の片身変わり
の3種で 煮出し汁の彩色は発色がしっかりするまで
10回以上塗り重ねをして 泥絵具に比べても相当な手間をかけられています
こうした昔ながらの制作の方法が
新しい作品を生み出す糧となり
今戸焼の過去 現在 未来を
表現されているように思います
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中野土人形
(奈良由紀夫 作)
江戸時代後期の文化・文政年間に初代・奈良栄吉が
京都へ福寿草の商いに行き 伏見街道に並んだ土人形に心をひかれ、
その人形型を譲り受け、職人を中野に呼び寄せ、
作り方を習い制作したのが始まりといわれています。
栄吉は伏見から約40回にわたって、
百数十個の人形を持ち帰ったと伝えられています。
奈良栄吉は、中野で開かれていた市に土人形を売り出し、
好評を博したそうです
昭和に入って、現在の雛人形の流入に伴い、土人形の人気は衰退し、
戦中には、土人形作りの材料のひとつであるニカワの入手が困難になり、
制作は中断されることとなりました。
昭和32年に、4代目政治が土人形作りを再開。
昭和34年には、ひな市で再び売り出されることとなりました。
現在は、5代目奈良久雄氏が制作されていますが ご子息の
6代目の由紀夫氏も 創作などにも意欲的に製作に励まれています
手に取ってびっくりしたのが この表情!!
中野の今までのイメージがひっくり返ってしまいました
これだけ大泣きしている子は見た事がありません
そういえば 昔は近所にも いっぱいいた様な気がします
頭にのっかっている ひょっとこのお面は
お父上の焼かれたものを使われています
もちろん 彩色はご自分でされていますが
ここにも親子のきずなを感じます
お父さんとお母さん どっちが好きかと聞かれても
返事のしようがなくて 困って泣き出してしまったこの子は
本当に可愛いです
人形に親の愛情を垣間見た様な気がしています
ちょんまげをつけた子と鉢巻きをしている子は
試作で考えられたものですが
中野らしく可愛いのはこっちです(笑)
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尾崎土人形
(高柳政廣 作)
神崎という地は 古く鎌倉時代
元寇の役で捕虜になった中国人より伝えられたと言う窯業地で
瓦や鉢類を焼く傍ら 人形が製作されました
廃絶と復活のすえ
現在 尾崎人形保存会 の高柳氏により製作されています
赤坂土人形とも相通じる 素朴な野趣に富む人形です
絣の柄で素朴で 飾らない人形ですが
昭和の30年ごろまでは
こういう感じだったかしらん
もう着物を着ていることはなかったかな
やっぱ戦前の雰囲気でしょうか(笑)
心の中に 自然と故郷への思いを
いつまでも持ち続けたいものです
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花巻土人形
(平賀恵美子 作)
東北3大人形の一つ 岩手県の花巻土人形です
平が工芸社 平賀恵美子さんにお願いしました
現在の花巻土人形は 流し込みの技法で制作されていますので
名古屋土人形の野田さんの手押しの型での人形製作に
かなり戸惑われたそうですが 強引にお願いして
無理やり製作して頂きました
着物の色を 花巻伝統の赤 明るい青
紫がかった濃い青の3色にして頂き
特徴でもある梅の花をあしらって頂き
清楚な人形となり いかにも花巻!という人形になりました
出来れば土鈴仕様も作って頂けないかと
お願いしたのですが
花巻独特の底部が紙張りという事もあり
希望が叶わなかったのが残念です |
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鵜戸川原土人形
(鵜戸川原土人形 本間光枝)
鵜戸川原土人形(ウドカワハラツチニンギョウ)は
山形県酒田市に合併以前の鵜戸川原村で
作られていたことからこの名前があります
また 酒田土人形ともいわれています
明治の初め 市内の山居稲荷近くで
鋳物工場を経営していた大石助左ヱ門が
仕事の暇な時間を利用して人形を作ったのが始まりで
こちらの土人形製作は かつては土型だけではなく
一部木型も使われていて非常に興味深い土人形です
その種類は 義経 弁慶天神桃太郎など多数に及び
大石家本家筋に当たる4代目定祐氏の未亡人やゑさんが
土人形の制作をされています
今回は やゑさんが高齢でもあり製作に限りがあるため
そのやゑさんが土人形製作の顧問となり指導をされている
鵜戸川原土人形保存会に製作をお願いしました
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頒布会メンバーからのコメントです
素朴な音色ながら繊細な顔立ちで とっても良かったです
東北の素朴さの中に品の良さが垣間見える可愛い人形となりました
嬉しい出来上がりに満足しています
各作家様の個性豊かな表情を楽しませていただいています
今回の物は大変上品なお顔立ちでオリジナル路線に近いタイプと思います
2色並べて楽しんでいます
お顔が大変可愛くできていて しかも土鈴仕様で気に入っています
ただ 鵜戸川原土人形をあまり持っていないので
うまくコメントできず申し訳ありません
赤色も もちろん良いのですが
青い色の方がより鵜戸川原の個性が出ている様な気がします
鵜戸川原らしい人形になったと思います
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中野土人形
(奈良久雄 作) 前に 六代目の由紀夫さんにお願いして作って頂いたのですが
お父上の 五代目久雄さんにも制作していただくことができました
名古屋の野田さんの型は 大変良い型で作りやすいとの事です
この饅頭喰いについてご本人よりお手紙をいただいています
その一部を紹介させていただきます
『昔 私の家に見えた方が、土人形屋は同じもの幾つも作らせると
程度がわかるとおっしゃっいましたが 本当にそうで、
人形作家と言うような方が
一品製作に作り上げるような立派な人形から見たら
土人形は昔の大衆相手の一種の大量生産人形なんですが
その大量生産方式の作り方の中に
それなりに見て頂けるようなものにしようとするということに
なかなか難しいところがあります
この饅頭喰いも少しでもお気に入って頂けると いいのですが・・・
この人形の赤い色は 私の家の昔からもので 鯛もこの色彩です
鈴にしてもいい音にならず すいません
紐も 普通なら頭部に付けるのがいいんですが、
いくら人形でも頭に穴開けたりするのはやはり ちょっとためらわれ
ご覧のようにしたのですが、今度は後ろがかっこ悪くなっちゃってすいません
いずれにしても この人形をもともと作られていた方から見たら
なんだコレ!!みたいになっちゃって すいません
私も八十六ともなると いよいよバカななれの果てみたいな
感じになってまいりましたが、出来る限り頑張っていきたく思います
土人形は何と言っても 温かさ 優しさだといつも思います
昔ながらの土人形などには これという決まった見方はないものだと思います
私の家の人形は 昔は中野びなと言ってこの中野周辺から
隣の飯山、野沢温泉方面までの一般家庭に
江戸時代から親しく飾られてきたのですが、これも大正頃になると
市外、県外産の良い人形がどっと出てくる上に
当家の人形の制作、彩色、技術の下落が加わって 戦前の昔においても
中野びなのご粗末などと言われてたというものでした
しかし そんな頃から 東京の竹とんぼの会の方など家にも見えるようになって
そうした方達は、いやそのご粗末でいいんだ、人形の彩色に気を使うなど無用
昔そのままが大切という見方をされて そのように父もよく言われたそうです
戦後 私がやるようになっても、戦前から郷土玩具など見続けてきている方達
私の所にもよく来てくださって 何しろ昔通り 父のやってた通りにと
言われたものでしたが、一方人形はますます売れぬということなどで
昔ながらを基本にしながらも、少しでも買ってもらえるようなものにと思いで
やって参りましたのが 今の私の人形作りなんですが
八十六にもなってしまってはダメで、少しでも気に入ってもらえるかどうか
そればかりです』
久雄さんの思いが伝わるお手紙でした
年齢的にも 願いにかかわらず細かく出来ず荒い部分はあると思いますが
久雄さんの思いが 人形にこめられた
なんとも温かな優しさの詰まった人形だと思います 感謝
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津屋崎土人形
(筑前津屋崎人形巧房 原田誠)
津屋崎土人形は 福岡県福津市で
江戸安永のころに生活雑器を作り始めたことが始まりで
古博多人形の流れをくみ 原色を用いて
素朴で温かみのある人形を製作しています
2020年 令和2年に入ってからの コロナ禍で
三密を避け 距離を取り マスクをしての生活で
皆さん大変な思いをされていると思います
三年越しの求愛に 何とか応えて頂けました
マツコの番組で モマ笛が紹介されて
てんてこ舞いの騒ぎになり 今回のコロナ禍
・・・・ということで かなりの時間がかかってしまいましたが
この時代にぴったりの人形として 出来上がってきました
製作者の原田さんからのコメントです
この人形は疫病退散を考えました
衣は魔除けの『朱』
模様はアニメ『鬼滅の刃』で話題になった『市松』と
幸せな暮らしが続く様にと『青海波』に
小さな九州の妖怪である アマビエを書き足しています
人形の面相は 津屋崎人形『ごん太』をイメージしています
不安定な世の中ですが 少しでも人形を通して
安心していただけたら幸いです
津屋崎の特色がしっかりと出ていて なお且つ
名古屋を髣髴とさせる味があり素晴らしい人形になりました
ありがとうございます
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