2005/9/1

名古屋土人形
よもやま話 弐


願ひ

名古屋鉄道常滑線新舞子駅のすぐ北のところの
ポリBOXの横に人形塚が立っています
「饅頭喰い人形」をモチーフにしたもので
かなり大きなものですが 現在の建っている場所は
余り似つかわしくないように思われます
昭和8年に建てられた時には
海岸の松林の中に建っていたそうです





この人形塚は昭和7年に趣味家が発起人となり
愛知電鉄の後援の元 新舞子を建設場所として
饅頭喰い人形(石材)の人形塚を企画し 
全国の有志から賛助費を募り
翌昭和8年に完成しました
「人形塚」の題字は 尾張名古屋藩主徳川義親


人形塚の構図に饅頭喰い人形が選ばれたのは
饅頭喰人形が伏見で作り出される様になって
親として饅頭喰の童児のような賢い子に
育ってほしいと云う気もちは今も変わらない
その祖先への感謝により
伝統の生活の永却を知るのである
永却である限り
何時の世になっても饅頭喰人形の変らない教訓を
その時代に表示してい
と云うのが、饅頭喰人形を選んだ理由である



昭和8年の新舞子の人形塚の竣工式の記念品として
浜島静波がデザインして野田さんが製作された饅頭喰い
背面に人形塚の文字があります
野田さんの型は名古屋空襲で焼失されたので、
戦後に新しく型を起こされて製作されたものです。
新舞子の饅頭喰いには 戦後の物にも新舞子の文字が入っています
頭の大きさがそれぞれに異なり、
比べてみると新舞子の饅頭喰いの方が頭が
大きく作られていることがわかります。
(写真の人形は 戦後のものです)



赤い着物の
饅頭喰い人形
(大)
赤い着物を着た饅頭喰いは、
同じ 浜島静波がデザインし野田さんが製作したものです
野田さんの饅頭喰い人形は 伏見からの伝統的なものではなく
昭和初期の野田さん自身の創作です
戦争で焼失したことから 戦後に新しく型を起こされました
野田さんは、新舞子の形の大小、赤い着物の大小の
四種類の饅頭喰いを製作をされましたが
戦前には、創作意欲があった野田さんにより
大きさや彩色の異なる様々な饅頭喰い人形が数多く
製作されていました


背面には
文字はなく
帯を締めています


                                        なかむらさんちのHP内の BBSに寄せられた
                                       蚕鈴様よりの助言を参考にさせて頂きました


名古屋土人形よもやま話

     


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