2005/9/1

名古屋土人形
よもやま話 四


思ひ


野田さんの土人形に愛着を持たれている Tさんから 丁寧なメールをいただきました
雀の研究をされているそうで 野田さんが作られた雀笛を紹介していただきましたので
雀笛と野田さんの写真を貴重な資料として披露させていただきます


郵政省の広報誌「ポスト 12月号」
(昭和61年12月 発行所廣済堂出版 監修郵政省)


1987年(昭和62年)の年賀切手の図案が野田さんの 「めおとうさぎの餅つき」 の土人形となり、
郵政省の社内誌か何かに漫画家の馬場のぼるさんが野田さん宅を訪れたレポートが載っています。、
その中にある写真で、野田さんが丁度絵付けをしている土人形が「雀笛」 です。
その雑誌に載っている仕事中の野田さんの写真、
馬場のぼるさんと野田さんが写っているもの、馬場さんの文章と漫画の一部、
それに雀笛の実物の写真数枚を添付します。


雀笛の由来について、野田さん宅へ初めて伺ったおり
野田さんはこう言っておられました

「三重県の富田浜あたりに住んでいるという風流人が訪ねてきて
雀が海に入って 蛤となる”
という中国の故事に因んだ雀笛を作ってくれるように」
と依頼されてつくった
私の雀研究のお師匠さんである動物文学者・俳人の故 小林清之介先生の著書から
その故事については知っていたので、
随分風流な手の込んだ土人形だなあと、そのときは思いました。


野田さんに雀笛を復元してくださいと 頼まれたところ
野田さんは 「時間が出来たら作ってもいいけれども、
型を起こすための 蛤の貝殻がいるからそれを調達して」と言われ
野田さんの許に送られたそうです


何度も野田さん宅へいっているのですが 鮮烈に印象に残っていることがなく、
野田さんご夫妻の温かい人柄にふれて、いつも居心地がよく、
まるで家族の一員かのように過ごしていました。
今から思い出してみると本当に不思議なお宅でした。
ただ一つだけ私のメモ書きに残っていたのは
、野田さんから聞いた

「今までに作った人形は、
小は2〜3センチくらいのものから、
大は70センチくらいのものまで、
300から400種類くらいかな」

ということです。

それから、野田さんの戒名は
「玩賞院法遊日吉信士」 (ガンショウインホーユウニチキツシンシ) ということです。
これは、新聞記事で
野田さんの逝去を聞いた私の母がお参りにいった折に、
野田さんの奥様から聞いて教えてくれました。
雀の郷土玩具などを整理しなおしていて、
野田さんの「寅申の高砂」 を取り出して、
実は私たち夫婦と野田さん夫妻の干支が全く一緒だった
(私が寅、家内が申)
ということに気がつき、不思議な縁を感じました。




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