2007/08/18
高山八郎氏の父 高山市太郎は明治24年ごろ 13〜14才で
当時 乙川から移住して豊橋で土人形を始めた杉浦幸次郎に師事し
修行を終えてのち 旭土人形の創始者となって
三河土人形制作の多くの弟子を育てた
この人形は 工人が旭村平七に多く住んでいた為 別名平七人形とも呼ばれる
現製作者 高山八郎氏 (大正11年生まれ)は
旭土人形の創始者高山市太郎の四男で
昭和30年頃一度廃業されたが
10年ほど前から土人形作りを再開されている
特徴は 赤や緑の鮮やかな色彩で明るい彩色にある
歌舞伎の組み物なども多く
二尺猫をはじめとする招き猫も端正で大らかな彩描で人気が高い
気さくなお人柄で 愛知に残された土人形の工人は
老いてますます盛んです
詳しくは 三河 旭土人形へ
明治25・6年ごろ美濃部四市によって始められた
大浜土人形も棚尾と同様に 歌舞伎外題者が大半を占めているが
棚尾と比べては色彩が明るく一段と華やかである
祖・禰宜田佐太郎は一度も師に付くことなく
自らの創意工夫でこの土人形作りを開拓してきた
この地方の良質の土に恵まれたことから始まり 節句人形が主流で
歌舞伎狂言に取材した 大型のものが特徴で 組み物が多い
武者物を得意とし 組み物の多い尾三の土人形のうちでも
60センチクラスの賤ヶ岳 加藤清正と山路将監正国(四方田但馬守)の
大物にいたっては他の追随を許さない
芝居は 働く庶民にとって大きな娯楽の一つで
村芝居などで人気役者の役柄が人形化されていった
組み物には賤ヶ岳をはじめとして各種あり
かつては農閑期に製作し 岐阜 浜松 足助 など各地に販路を持ち売られた
「足助の中馬のおひなさん」などに かつての活況の面影をのこしている
佐太郎の死後は 章が後を継ぎ 三河唯一の作者として大浜土人形の声価を高めた
彰氏亡き後 次男の徹氏が 会社勤めの傍ら 少しずつ製作をされています
禰宜田 徹
愛知県碧南市若松町1−25
詳しくは 大浜(三河)土人形
忠臣蔵で有名な敵役
吉良上野介(無論 地元では名君として慕われています)の所領の
三河 吉良の山々は かつてより雲母の産地として有名で
特に 西尾市八ツ面山(やつおもてやま)の良質な雲母は広く認められており
かつては朝廷に献上されたほどであったが
明治の頃には 殆ど掘り尽くされて
発掘人夫等の犠牲者なども多く出た為 採掘が中止された
その頃より この地の陶工加藤熊蔵の手により
その霊を慰める為「きらら鈴」が作られ
祭礼等で木の枝にぶら下げて 御魂を迎え祭ったのが始まりといわれる
雲母を土に練りこみ 固く焼きしめられ
明るく澄んだ清らかな音色の土鈴です
土の色を生かした素朴な中にも洗練された意匠で
いつまで眺めていても飽きない品の良さがあります
松田 克己
西尾市八ツ面町尾屋敷78
詳しくは 西尾 きらら鈴へ
忠臣蔵で敵役として知られる 吉良上野介義央公は
所領三河吉良一円で治山治水民業振興に力を注ぎ善政をしいて
領民に敬愛されていた
この赤馬は吉良公の愛馬だった赤馬を模して作られたといわれている
練物で長さ4センチほどのものである
型抜きをして作られるが手ひねり風の造りに素朴な愛らしさがある
詳しくは 西尾 きらら鈴
乙川の技法を取り入れて明治36年 創始されたといわれる
かつては赤黒二天神が存在したが 赤天神のみが残っている 戦後復活した今日では 小型で木製の台座に座した 練物風の感触の愛らしい天神として造られている 桃の節句の折には 三河地方では特に男子の為に天神にあやかり 文筆に秀でるのを願って ひな壇の片隅に飾る習慣があった |
天神(小) |
他に 獅子頭や鳩笛などがあり
張子の達磨と共に現在も豊橋市で 西村 一雄・秀明親子が製作している
平成18年に 趣味家の依頼で かつて四種に塗り分けられていたという獅子頭の. 白と青があらたに作成され 赤青黒白と塗り分けられて 四個組みがそろいました |
蒲郡 竹島弁才天は 八百富神社といい 大正12年に参拝記念として創生され 後 中断し 戦後復活されたが その後また製作されていなかったが 最近 何点か 製作されたそうです 三河土人形の大型のものと比べると古朴さには欠けるが 温雅でふくよかな 身近に感じられる女神様である |
豊工芸所というところが昭和40年代〜作っていたものだと思われます。
以前は、駅の観光案内所で販売されていたという話を聞いたことがあります。
現在では見かけませんので、廃絶したものと思われます。
豊橋は養鶏王国なので、玉子人形というのも分る気がします。
、豊工芸所自体は、存続しているようです。
文化文政の頃から作られている この地方でももっとも古い張子の一つ
この形はみどり児がおくるみに包まった形を表したものといわれ
地元の農家では 子供が ころりんころりんと遊んで
健やかに育つようにとの願いで
正月の神棚に供えるという風習があった
宿場女郎の嬌態を写した 風俗人形ではという一説もあるが
頷ける気もする
五代目面武・内藤武人氏は2003年2月に 享年101歳で亡くなられ
後継者の 内藤武子さんは寡作の為
古き・よき郷土玩具正統派の一つがまた消えていくのかと 危惧さています
此処の凧は その形態の異色さゆえに天下に名だたる存在である
蝶々 蜂 蝉 カラス 福助 天神 達磨 扇など他地方の追随を許さない
大正期の始めの創始とされる
桜井の凧は かなりの品目が名古屋だこと重複しているが
天神だけは此処独自のもので異色である
製作者の岩瀬仙松氏が平成6年7月になくなられ廃絶したのは
かえすがえすも 残念でなりません
三河國一宮砥鹿神社 愛知県豊川市赤代町1丁目 |
愛知県宝飯郡小坂井町菟足(うたり)神社の風祭に売り出される縁起物
風祭(四月第二土・日曜日)は作物を風害から守る為に祈願する祭りで
1678年江戸の信者が神輿を海路寄進したさいに
風波の難に遭いながらも 神輿だけはこの地に安着したので風祭と呼ぶ
風車は 経木の羽根六枚を俵に象り 車輪形に組み合わせたもので
六俵 (無病)息災と語呂を合わせて喜ばれる
後部に振り太鼓式の砂入り紙筒がついており 回転すると軽快な音をたてて鳴る
この風車を戸口に挿して置くと魔除けになるともいわれる
現在は風祭のときと 七五三参りの記念に授与されている
菟足神社 愛知県宝飯郡小坂井町大字小坂井字宮脇2−1 |
面武作として 平成2年 菟足神社で授与された物 大きさ 長さ 24センチ |
黒鬼麺 薙刀 撞木 豊田三良作
豊橋市の安久美神戸神明社で、毎年2月10日11日には、
天下の奇祭「鬼祭り」が行われます。
吉田城の鎮護として祭られた神明社に伝わる神事で
まつりでは荒ぶる神が「赤鬼」となり、
武神が「天狗」となります。
そして神話における荒ぶる神と武神の、
闘いが鬼祭りのメインイベント、
「赤鬼と天狗のからかい」になります。
また、その様子を見守る「黒鬼」が、
国津神(くにつかみ)とされています。
赤鬼と天狗のユーモラスなからかいの行事のあと
負けて逃げる赤鬼を赤足袋をはいた若者が追いかけ
懲らしめられた赤鬼は、自分の非に気づき、
お詫びとしてタンキリ飴を人々に渡していきます。
このタンキリ飴には厄除けと夏病みを防止する効果あるそうです。
祭礼に因んだ 天狗の持つ薙刀(なぎなた)と
鬼の持つ撞木(しゅもく)は 玩具として面などとともに売られている
豊川稲荷は日本三大稲荷の一つで 曹洞宗豊川閣妙厳寺付属する社祠で
俗に平八狐が祭られているという
額に金まき絵の宝珠が描かれているのが特色で
なおかつ極端に目尻を吊り上げてかかれているのも他に比類が無い
かつては 大小5種類のお面が売られていたが
今では 参道のみやげ物売り場で 少しずつ並べている程度
五代目面武・内藤武人氏が 高齢なことと
豊田浩氏が亡くなり 後継者の豊田里美氏も平成元年に亡くなられた為
豊橋市 西村一雄氏に 一時期製作が依頼され作られたそうですが
現在は 西村家でも 製作されていません
豊川稲荷 愛知県豊川市にある曹洞宗の 円福山 豊川閣 妙厳寺 (えんぷくざん とよかわかく みょうごんじ) の通称 |
三河の張子面の多くは 江戸文化華やかな徳川の中期に創られたと伝えられ
昔より伝わる伝説や 神社仏閣の祭典 因習などと深く結びつき
五穀豊穣 無病息災 厄除けなどのお守り 縁起物として売られたり授与されたりした
参考文献
郷土玩具辞典 斎藤良輔編 東京堂出版
名古屋土人形 中島芳美著
東海の郷土玩具 亀井鑛著 中日出版社
日本の土鈴 森瀬雅介・斉藤岳南著 徳間書店
土人形 鈴木良典コレクション 豊橋市美術博物館
日本の土人形 俵有作編 文化出版局
日本の郷土人形 京都府立総合資料館
全国郷土玩具ガイド 畑野栄三著
天神さん人形 木村泰夫著 日貿出版社
なごや地方の郷土玩具 名古屋観光推進協議会
他